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hurusato

どうして奈良の大仏さまのふるさと?
8世紀の半ば、時の聖武天皇は国が未曾有の危機にあると考えていました。国の実権を握っていた藤原四兄弟は天然痘であっけなく命を落とし、その後相次いで大飢饉・自然災害が連発。実権を奪われた藤原氏の子孫(藤原広嗣)が大宰府で反乱を起こし、社会は大きな不安状態にあったのです。そこで天皇はわらにもすがる思いで信仰に救いを求めました。741年、国分寺建立の詔(みことのり)が出され、全国各地に国分寺・国分尼寺が建立されました。そして743年、大仏造立の詔が出され、745年その建造が始まりました。
良の大仏様は正式名称を慮舎那(るしゃな)仏といいますが、その建造には多くの銅が用いられています。さて、その際その多くの銅を美祢市美東町長登の長登銅山から運んだとされています。その遺跡が産業史上重要な位置を占めるとして2003年、長登銅山跡は国の史跡に指定されました。


  長登銅山文化交流館
長登銅山文化交流館
長登銅山遺跡の発掘調査で出土した土器や鉱石、木簡等を展示しています。

銅山
長登銅山遺跡

長登銅山文化交流館
場所 : 美祢市美東町大田610(道の駅みとうより車で10分程)
電話 : 08396-2-0055
大田絵堂

長州の趨勢を決した大田絵堂の戦い

末、長州藩の論調は必ずしも一枚岩ではありませんでした。幕府に同調する俗論派と進歩的な正義派が藩のあり方を巡りせめぎ合いをしていたのです。俗論派が正義派を粛正していくなかで高杉晋作は奇兵隊の決起を促しました。それに従ったのが伊藤俊介(後の博文)や山県狂介(後の有朋)だったのです。
杉晋作が下関の功山寺で挙兵(1864年12月16日)、それに呼応して奇兵隊及び諸隊は次々と兵を挙げました。その際、一大決戦が行われたのが絵堂・長登など、今の大田から絵堂に掛けての地域だったので、この決戦を一般に大田絵堂の戦いと呼ぶ様になりました。
う言うわけで、この戦いは長州の内乱という性格が強いものの、結果的に藩の方向性を決するものとなり、ついには日本を維新へと突き動かす原動力ともなった重大な事件として歴史にその名を刻まれることとなったのです。
  金麗社
金麗社 
奥に大田絵堂の戦いで諸隊の本陣が置かれた天神社がある。ここを金麗社としたのは山県狂介だという。

金麗社
場所 : 美祢市美東町大田上新町(道の駅みとうより車で5分ほど)
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